2005年01月27日

1月19日付・読売社説(1)[自民党大会]「責任政治の体制をどう築くのか」

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20050118ig90.htm

 「現実政治に責任を持つ政党」との表現は、まるで自民党以外は現実政治に責任を持っていないかのような印象を与えるが、それが読売の立場なのだろう。

 読売の主張は、結局批判の形を取りながら、自民党の「悲願」をもっと表面に出して推進せよ、と後押しするものである。

 消費税増税、三位一体改革、と庶民の懐に寒風の嵐を叩き付ける政策が目白押しである。郵政民営化に至っては国民の大きな反対すら「既得権益の擁護」として郵政族議員らと同一視してしまうつもりだろうか。

 読売の言う「55年体制時代の自民党体質」とは、大企業を優先しつつもささやかながら庶民の懐に配慮してきた面を指すのだろうか。

 とすれば、「新たな党の体制と基盤」とは、庶民に配慮せず悪政が推進できる状況づくりを指すのだろうか。
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1月20日付・読売社説(2)[日韓交渉文書]「冷静に評価すべき『国交正常化』」

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20050119ig91.htm

 今更ながら、改めて世界の常識に逆らう読売の歴史認識がうかがえる社説である。

 「いわゆる過去の清算の問題が決着をみたにもかかわらず、日本政府に対する個人補償要求は執拗(しつよう)に続いてきた。韓国政府が、国民に十分に説明してこなかったことが一因だった。」

 日韓の政府間については、確かに手続き上は過去の問題について精算済みとも言える。しかし、韓国の国民はそれで納得したのだろうか。正常化以後に明らかになった事実などもあり、明確に決着が付いたとは言い難い面もある。

 むろん、韓国国民が韓国政府に対し保障を要求することを妨げはしない。しかし、それを理由に日本政府を免罪してよいとはならないだろう。

 ドイツではアウシュビッツなどでのユダヤ人虐殺について、徹底した反省を行っている。単に「被害者に対する保障」だけでなく、二度と悲劇が起きないため、啓発やファシズムの復興を戒める教育など、努力を重ねているのである。

 翻って我が日本はどうか。国家としての責任は今だ認めていない。戦後補償とは無関係の「経済援助」を楯に、せいぜい被害者救済のための基金設立でお茶を濁すような決着を押しつけたのみである。まして、戦争の責任者とされた「A級戦犯」を首相に据え、靖国神社に合祀し、首相や閣僚らが毎年参拝するとなれば「再び侵略を受けるのではないか」との危惧は当然だろう。

 説明責任は韓国政府ではなく日本政府にこそあるということを、確認しておきたい。
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1月23日付・読売社説(2)[NHK番組問題]「疑惑が残れば公共放送の危機」

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20050122ig91.htm

 タイトルだけを見れば、NHKを追求しているかのように受け取れる。しかし、よく読むと内実は論点逸らしと問題の矮小化である。

 こういった手法を「ファシスト的話法」と呼ぶらしい。

 再度、問題を整理しておこう。
 一旦完成した放送用のビデオを、安倍氏との面会後に再編集し、結果として放送予定の枠を使い切らない、未完成な番組を放映してしまったこと。
 これは、もはや議論の余地がない事実関係と言ってよいだろう。

 これに従い、改めて論点整理しておこう。

 まずNHK側である。編集は、件の「放送用テープ」が完成した時点で終了である。これを変更するなどというのはとんでもない異常事態である。これは番組内容が云々という以前の問題である。なぜそのような事態になったのか、NHKは国民に対し説明責任を果たさなければならない。

 そして安倍氏側である。「偏った内容の番組がある」と聞いていたのでNHKに「公平・中立にやるよう」念を押した、としている。どうやって「偏った内容」であることを知ったのであろうか。事前に番組内容を知っていたとすれば、「検閲」との誹りは免れまい。
 また、両者の説明では「安倍氏にNHKが呼ばれたのではなくNHKが安倍氏に説明に言った」といって「政治圧力」との批判を逃れようとしているが、自主的だからといって圧力でないということにはならない。NHKによれば「日常業務の範囲」との説明で、すなわちこれは政治圧力が日常化し、すでに「圧力」であるという意識を失わせるまでに至っていることの証明である。

 「事実関係の確定を抜きに・・・論理のすり替え・争点ずらし」をやっているのは、発言者本人たる読売であることを指摘しておく。


 終盤近くに、読売の本音を示す一文がある。「昭和天皇を『強姦などの罪で有罪』とするような『法廷』の内容をそのまま番組にしたのでは、上司が改変を指示するのは、当たり前だろう」

 ここから、読売が「法廷」をまず否定していることが読みとれる。その立場が正しいかどうかは別として、番組は「法廷」の内容をそのまま流すものだったのだろうか。伝わってきている事実として、関係者の証言を入れるなど、独自に検証を進めているように思える。「そのまま番組にした」と決めつけてよいのか、甚だ疑問である。読売は安倍氏同様に事前に内容を知っていたのだろうか。
 また、上司が改変を指示すべきとすれば、それは編集済み放送用ビデオが完成するまでの期間である。完成後の改変について、これでは説明として不足である。
 そして、このビデオ完成後安倍氏には「公平な番組にしましたので放送させてください」と説明に行ったのではないのか。この報道が正しいならば、この時点でNHKは番組を「公平」と評価していたことになる。読売は「法廷」を扱ったというだけで放送してはならないとでも言うつもりだろうか。

 第二次大戦当時、日本の主権を担うのは天皇であった。国家や軍部が無法を行ったとすれば、その責任を天皇が問われるのはやむを得まい。国家や軍部に責任がないというならば、「法廷」の中心となったVAWW-NET JAPANを名誉毀損で訴える必要があるのではないか。それが行われていないのは、国としてその内容を認めたということであり、今更否定するのはおかしな話である。

 また、番組内容が中立ではなかったとして、改変を正当化する理由にはならない。取材協力者の意思を踏みにじったとの指摘もあるが、議論のある問題については、双方の立場について報道する必要がある。時には一つの番組が、一方の立場に注目する場合もあろう。必要ならば反証する番組を作ればよい。


 「番組の改変作業自体は、朝日新聞が安倍、中川両氏の政治的圧力があったとする日時の、ずっと以前から始まっている」のはあくまで編集であり、現在問題になっている改変とは性質が異なる。そのことを認識しているからこそ「NHKによると」と付け加えることで責任回避を図る狙いがあるのかもしれない。

「事実関係の解明に際し、問題の焦点を拡散させてはならない」との立場を本気で取るなら、「ことの本質」を「朝日新聞の一月十二日の報道内容が『事実』かどうか」という矮小な枠に押し込めることは許されない。
 また、これは朝日も同様であり、報道のあり方について国民的に議論するきっかけとするのではなく、朝日の名前とイメージを売り込む機会としか捉えないのであれば、結果的に読売やNHKの手助けにもなりかねないことを最後に指摘しておく。


なお、「ファシスト的話法」について参考になる記事を以下に示しておくので参考にされたい。
http://red.ap.teacup.com/sunvister/26.html

http://hatahata.mods.jp/archives/2005/01/post_128.html

http://sinrigakukenkyu.ameblo.jp/entry-c1974bbdc396c3c1ec4bb72b9041d005.html

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1月15日付・読売社説(2)[NHK番組問題]「不可解な『制作現場の自由』論」
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2005年01月25日

1月15日付・読売社説(2)[NHK番組問題]「不可解な『制作現場の自由』論」

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20050114ig91.htm


 自らがかけた圧力を「圧力」と理解することも不可能な安倍晋三氏と全く同じ立場に身を置く読売らしい論評である。

 まず、NHKの番組制作はチーフプロデューサー(以下CP)の元に行われる。それ以上の上層部が口を出すということ自体、異常事態であることをまず指摘しておこう。

 次に、様々な意見を取り入れた番組の最終版が放送前日に確定しているにも関わらず、安倍氏と会ったNHK幹部が試写を行い、改変を指示した。さらに、当日にもいくつかのカットを指示し、結局4分足りない番組を放送する異常事態を招いた。NHKの責任は重大である。

 「NHKは、放送直前まで内容の検討を続けたが両氏との面会によって番組の内容を変更したという事実はない、と反論している」そうだが、上記のように面会後の改変が異常であったことは、事実が示している。それ以前の変更ならば、44分という決められた番組の枠内に収めるよう調整ができたはずである。

 安倍氏は「事前に番組の内容が不公平であることを知ったので公平にするよう言った」と説明している。NHKの番組内容が事前に政治家に漏れていたとすれば、検閲の疑いすらある。また、番組内容に異議を持つことを前提に「公平に」などと言えば、言われた側が言った側の要求に合わせようとする可能性は高いであろう。相手が官房副長官という要職にあり、予算に影響力を持つ人物ならばなおさらである。これを「圧力」と解釈できないのは、圧力を受けて行動することにあまりにも慣れすぎ、日常化してしまっているためかもしれない。

 「『女性国際戦犯法廷』では、昭和天皇が『強姦(ごうかん)』の罪などで起訴され、有罪が言い渡された」
 「このような性格の『法廷』の趣旨に沿った番組が、『制作現場の自由』としてもしそのまま放送されたとすれば、NHKの上層部はあまりに無責任」


 とのくだりには、読売が「法廷」を敵視する姿勢が顕著に表れている。しかし、慰安婦の問題は政府も一定の謝罪を行うなど、程度の不足はあれども決着済みの問題である。その責任者云々の話で、ここまで敵視する必要があるのだろうか。

 読売が挙げている放送法3条には、「報道は事実をまげないですること」とある。民衆法廷という場で、日本国と昭和天皇が有罪とされたこと、慰安婦問題について「経験した」との立場で証言する人がいることについては国民に知らせる必要があろう。

 もし、この判決が事実無根であるというならば、政府は彼らを相手取って名誉毀損で訴えを起こさなければならないだろう。それがないというのは、事実上彼らの主張を受容したと見られてもやむを得まい。

 「偏向しないバランスのとれた報道が必要」なのは、なにもNHKばかりではない。読売にもそれは求められている。しかし、読売は何を「偏ったもの」とするかという基準そのものがすでに偏っていると断じざるを得ないようである。
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2005年01月18日

1月16日付・読売社説(1)[阪神大震災10年]「自助・共助・公助で減災を目指せ」

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20050115ig90.htm


 「被災地に投じた公的な復興事業費だけで16兆円を超す」とわざわざ記述する意図が見えづらい。「これだけ頑張ったんだぞ」とアピールして政府への批判を封じる狙い、と見るのはさすがに穿ち過ぎだろうが、そう感じさせるのは、政府の責任についての記述が全く抜け落ちている不自然さによるものだろう。

 もちろん、「自助・共助・公助」の全てが重要であることは言を待たない。しかし、この社説で「公」に触れている部分といえば自治体に対する批判のみである。

 参考までに、地元紙・神戸新聞の社説(1/18付)を読んでみよう。

 http://www.kobe-np.co.jp/shasetsu/index.html

政治と危機管理/窮地に立った国民を救ってこそ

未曽有の大災害で窮地に陥った時、国民は最後の救いを政治に求めるしかない/危機管理の初動システムはできたが、そこに“魂”は入っていなかった/危機管理は、危機の発生を未然に防止すること、被害から早期に回復を図る仕組み、の三つのプロセスがなくてはならない/国民の生命・財産を守ることに、政治は可能な限りの努力を傾注すべきである/「災害有事」に「政治」が求められていることを、今一度考え直すべきである


 これこそが健全なジャーナリズムであろう。地方紙に比し、中央紙は政治批判があまりに弱い。むろん評価すべき所は評価すればよいが、批判すべきをしないのであれば、「第4の権力」として民主主義を担うメディアの役割は無に等しくなる。

 なお、せっかくなので神戸新聞の社説を見たところ、全体的に健全な印象を受ける。99年10月以降の社説は全てオンラインで購読できるので、中央紙と読み比べてみるのもよいだろう。


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1月14日付・読売社説(1)[納税者番号制]「導入は年金改革に欠かせない」

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20050113ig90.htm


 国民の関心が高い年金論議を、財界が求める納番制導入に結びつける意図が露骨である。

 「米国、欧州の複数国、韓国などで実施され」ているからといって「税制の世界標準」とするのはやや強引な印象を受ける。

 「民主党や日本経団連なども、以前から納番制の導入を求めている」との指摘は、逆に国民一般から求められた制度ではないことを露呈している。

 「財務省は、全納税者を対象とするのではなく(中略)希望者の選択で導入する方針」として政府方針を非難。つまりは「全納税者を対象に強制的に導入」を求めていると言える。

 「プライバシーの保護」を言うなら、「個人情報が漏れないよう」などという以前に、国家か過剰に個人情報を把握すること自体が問題である。

 そうやって個人をがんじがらめにする社会がどこへ行くのか。読売が嫌いなどこかの国と似ているのではないか。いや、実は嫌いなのではなく、あの国のようになりたくて羨ましいからムキになって攻撃するのか。
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1月13日付・読売社説[『戦後』を超えて]「財政再建と再生の二兎を追え…日本経済の復活元年へ」

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20050112ig90.htm


続々繰り出される「『戦後』を越えて」シリーズ。今回は平和問題とは関連がやや薄いが、消費税増税を軸に、「庶民を犠牲にした」財政再建と「財界・大企業の」再生を「二兎」として押し進める内容である。

【プラザ合意が転換点】

 外圧による「内需拡大」策がバブルを招き、失敗に終わったことは読売でも指摘せざるをえないと見える。しかし追求の内容は曖昧に過ぎる。

 バブルを招き、国家財政を破綻させた主因は、役に立たなかったり採算がとれず赤字補填に税金が投入され、さらに財政に負担をかけ続ける無駄な大型「公共」投資である。
 その公共投資の推進力になったのが、金額目標を定めた米国との約束である。しかし、自国の利益のみのために無理な要求を押しつけた米国や、それを受け入れた従属日本政府に対する批判を読売に期待するのは酷だろう。

【放置できぬ財政危機】

 財政危機に対する懸念は尤もであるが、読売は結局、それを「消費税増税」を正当化する口実としているにすぎない。

 橋本内閣当時、3%から5%へ引き上げられた消費税は、他のいくつかの負担増と併せて、上向きかけていた経済を奈落の底へ蹴落とす役割を果たした。その再現を読売は狙うか。

 最近景気に底打ち感が見られる、などというのはリストラによる経費削減により大企業が増益を果たしている面が強く、一方で労働者は無職や不安定雇用などの状況におかれ、個人消費は低迷している。消費税を増税するなら、この個人消費をはるか深海にまで沈めることになる。

 景気が上向かなければ、基礎的な税収は向上しない。景気にダメージを与える財政再建しか発想できないのは思考が貧相な証拠である。「広く薄く」と喧伝される消費税の特質が、所得の少ない者ほど負担率が高くなる「逆進性」にあることは、経済学者の間では常識であっても読売には通じないか。

 その他にも「老人医療費など給付額の抑制は当然」「予算のぜい肉をそぎ落とすことが」など、庶民犠牲を推進するのが読売である。消費支出減に苦難が現れている庶民の負担を増やすのではなく、リストラ等で利益を貪る大企業にこそ税を課すべきであろう。


【デフレ脱却へ詰め急げ】

 デフレの逆はインフレ、と言わんばかりの内容である。しかし、デフレは経済の停滞がもたらした存在である。量的緩和などで額面ばかり上昇しても、実体経済が上向かなければ何の意味も為さない。

 ペイオフ解禁についても、公益団体の保護上限額が個人と同額でよいのかなど検討すべき課題は山積している。闇雲に進めてよい問題ではない。

 強引な手法による「不良債権処理」や「銀行再編」が中小企業の資金繰りを悪化させ、経済の停滞につながっていることに配慮がないのは、政府の手法を美化するためか。

 銀行には公金に頼らず、自らが負担する保険機構の構築によって破綻のリスクを軽減してほしいものだが、「公的資金の注入をテコに」など血税投入を当然視する姿勢には呆れるしかない。

 結局、読売の主張は「庶民犠牲追い詰め政策」を経済・財政両面から押し進めよと求めるものにほかならない。


 
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2005年01月11日

1月11日付・読売社説[『戦後』を超えて]「中国はどこへ向かうのか…岐路に立つ“超大国”」

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20050110ig90.htm

 読売といえども(読売だからこそか)中国の動向には目が離せないようだ。確かに中国の台頭ぶりには目を見張るものがある。平均してしまえば日本の十分の一としても、日本の十倍に上る人口を持つ国全体で合計すればGDPが日本を上回るのは、もはや時間の問題と言われている。

 アジアの大国となりつつある中国と、すでに大国である日本。両国の関係は、この地域の安定を確保する上で非常に重要となる。しかし読売社説では、中国をむしろ「警戒すべき競争相手」と見る傾向が強い。

 「『偉大な復興』とは、米国にも対抗できる超大国として、かつての中華帝国のようにアジアに君臨するイメージなのだろう」というあたりが読売の警戒感を強く表している。しかし、少し決めつけが過ぎはしないか。日本がアメリカの手下としてアジアを支配しようとするのに、その障害になると見る読売の立場だろうか。

 「地域・個人間の格差拡大が、止まらない」のは中国だけの問題ではない。世界全体がそうであり、日本国内でも格差は拡大している。米国も同様である。そのあたりをスルーして中国だけが抱える問題のように描くのは公平さに欠ける。

 不確定要素が多いとはいえ、結果的に日中間に求められるのは友好関係である。もちろん中国が抱える問題は多岐にわたるが、「間合いをどうとるのか」などと言うのではなく、その間合いを埋め、アジアの両大国が協同して地域の安定を目指すべきであろう。それは両国を含む地域全体の利益となる。

 読売にはいたずらに反中感情を煽らないよう忠告しておきたい。
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2005年01月10日

1月10日付・読売社説(1)[成人の日]「『働く』ことの意味を考えたい」

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20050109ig90.htm

 一見、新成人への励ましと解釈できる。しかし「『働く』ことの意味を考えたい」と銘打つ割に、「労働の意味」についての適切な提言は見あたらない。ではこの社説の狙いはいったい何であるのか。

 「気がかりなのは、働こうとしない若者が増えていることだ」として、正規雇用につくことができない若者を、本人の自覚の問題に貶めている。状況は人それぞれであり、確かに自覚や意欲に問題がある若者もないとは言えなかろう。しかし、正規の職に就けばサービス残業など違法な長時間過密労働がまかり通り、非正規雇用ならいつ首を切られるかわからない不安な毎日を過ごす現実を、彼らはよく知っている。さらに、何社面接に回っても自分が社会から不要であるかのように扱われ、たとえ働いても「いくらでも代わりはいるんだよ」という軽い扱いしか受けられないのでは、働く意欲を失うのも当然であろう。

 自覚がどうのと突き放すばかりでなく、なぜ若者たちが意欲を失っているか、彼らに心を寄せて真剣に考える暖かさが欲しいものだが、常に政府・財界の側に立つ読売にそれを期待するのは酷というものか。
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1月10日付・読売社説(2)[サッカーくじ]「営業努力の欠如が招いた低迷」

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20050109ig91.htm

 サッカーくじの不振原因を「営業努力の欠如」に狭めているが、果たして問題はそれだけか。宝くじはともかく、競馬を引き合いに出すのはサッカーくじを「公営ギャンブル」と認めている証でもある。

 スポーツは勝ち負けだけが問題ではなく、内容にも意味があり、例えば昨年マリナーズのイチロー選手が述べたように、プロならばプレーで観客を魅了するのが当然である。スポーツをギャンブルの対象にすることは、スポーツの醍醐味を勝敗という結果のみに狭める危険性もある。

 販売不振によりスポーツ振興にかける助成金が減少していることに懸念を示しているが、大元をたどれば、サッカーくじをアテにして大幅に税からの助成金をカットしたことにその原因がある。しかし、その点への言及がないところが政府養護の読売らしい。

 販売に関する規制を緩和せよと求めるのは、ギャンブルにハマる国民を増やせと叫んでいるに等しい。場外馬券・舟券売り場やパチンコ店の進出が地域に与える影響から各地で軋轢を生んでいることを考えれば、ギャンブルが広がることの危険性にも気付くはずだが、読売にその視点はない。国民をギャンブルに巻き込むことで政治的関心の低下を狙うか、との迂遠な想像さえさせてくれる社説である。

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2005年01月09日

1月9日付・読売社説[『戦後』を超えて]「国際協調を再構築できるか…米国の重い課題」

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20050108ig90.htm


 中二日での掲載となった「戦後を越えて」シリーズ。米国の行動に一定の懸念を示しつつも、その路線を後押しし、世界に目を向けない内容となっている。


 社説ではテロと並んで「大量破壊兵器の拡散」を「冷戦終結後の脅威」として挙げている。確かに北朝鮮やイランなどの核開発は世界的な懸念事項である。しかし、米国の大量破壊兵器は問題にしなくてよいのか。

 NPT(核拡散防止)条約では、防止すべき拡散として、新たな核保有国の発生と同時に、核保有国において核軍拡が進むことも「拡散」と定義している。NPT再検討会議で自らも賛成して決議された核廃絶目標の無効化を企み、「小型」を理由に核開発を進めるなどブッシュ政権の核政策をどう評価するかが、日本のマスコミにも問われている。

 「米国がもしイラクで失敗すれば」云々とあるが、そもそもイラク復興について破壊の当事者である米軍が中心となっていることに無理はないか。読売にはその疑問を投げかける視点すらないようだ。

「米国といえども、軍事力だけでは、再建プロセスを安定軌道に乗せることはできないのが現実だ」ということに、今更気付いたのか。その遅さについては指摘せざるをえないが、さらにいうならばそもそも「軍事力で問題を解決する」という方法そのものが間違いであったことに早く気付いてほしいものである。

 しかし、「米国は、一国の軍事費が、世界全体の軍事費の半分近くを占める圧倒的な超大国だ。世界一の経済大国でもある。冷戦終結後の世界で、国際平和に中心的な役割を担えるのは米国だけだ」などと認識しているようでは、軍事力信奉の魔手から逃れる道は遠い。

 米国がなぜこれだけ多くの軍事費を必要とするのか。それは、軍事力を背景にして他国を支配するためである。ある時は脅威をちらつかせ、またあるときは「脅威から守る」ともちかけ、あらゆる場面で自国の「物質的・経済的豊かさ」を守るため、軍事力が活用されているのである。それが、一方では発展途上国の貧困を招いていることまで見抜かなければ「マスコミ」としての責任は果たせまい。

 世界は米国依存という「旧来のシステムからの脱皮を図」り、多国間協調への道を歩んでいる。日本だけが「米国との同盟関係の強化、発展を軸に」などと考えていると、独伊との三国同盟で世界から孤立した道を、相手を換えて再び歩むことになりかねない。

 「国際平和の構築に積極的な役割を果た」している憲法九条をないがしろにし、先制攻撃戦略で世界に脅威を与える米国を擁護する読売。その本音がいったいどこにあるか、我々は見極める目を持つ必要がある。
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2005年01月08日

1月8日付・読売社説(1)[情報提供拒否]「未納減らしに自治体も協力を」

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20050107ig90.htm

 国会議員らの未納が発覚し、議論を呼んだ年金問題。しかし、未納の大半は、「とても払える状況でない」国民の経済事情によるものである。そこに対する視点を欠いては、生活に必要な生産物まで領主が没収した「年貢の取り立て」と同様になってしまう。

 確かに未納者の中に悪質な者がいることは確かである。それが年金制度に対する不信から出発していることに目を向け、制度の信頼を回復する努力を惜しんではいけないとしても、悪質な未納が不信感に輪をかけていることは見ておくべきだろう。

 それにしても、自治体に情報提供を求める姿勢はやや強引すぎはしないか。その疑問への答えは社説の末尾にあった。「過剰なプライバシー保護論は、納税者番号制導入の障害にもなっている」とある。結局、納税者番号制度導入の足がかりとしたいというのが読売の狙いなのであろう。

 なお、読売が言及しない問題として、日本の年金制度は欧州諸国に比して極端に個人負担率が高く、欧州では企業負担によって社会保障が支えられていることについて、この機会に言及しておく。
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2005年01月06日

1月6日付・読売社説[『戦後』を超えて]「活力ある長寿社会にしたい…人口構造の転換点」

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20050105ig90.htm


1日から連続するシリーズ。今回のものは「戦前への回帰」とはやや趣旨が違うようだ。

【65歳は高齢者ではない】

 なぜ今更「昭和」を持ち出す必要があるのか不可解だ。大きな問題ではないようにも見えるが、歴史を見るとき「戦前」「戦後」という社会的に大きく分断された部分がある。それをスルーさせる狙いがあるとすれば問題である。「戦前」から未だ抜け出せない読売の思考を表しているとも見える。

 医療の発達による長寿化で「高齢」の定義が変化していることは理解できる。高齢になっても働き続けられる健康が維持できるのならば喜ばしい。しかし、読売はそこへ論調を持って行くと見せかけながら、別の方向へ誘導することを狙っている。

【重要な団塊世代の役割】


 他に気になる部分は少ないが、年功序列賃金の修正をことさら主張する必要があるのだろうか。年功序列に問題点があることは確かだが、欧州のように労働者の権利が守られていない日本で、その弊害を和らげる役割も果たしてきたのが年功序列であることは意識しておくべきだろう。


【時間の空費は許されない】

ここで論理が飛躍する。前項までで、いわば「元気で働く高齢者(これを高齢者の定義から外すという事か?)」が増加すれば「活気ある長寿社会」が展望できるとしておきながら、「社会保障費増加に備えて消費税」と持ってくる。過去、社会保障費増加の根拠とされた「支え手の人数が減って支えられる人が増える」の論を否定しておきながらこの結論というのは、政府側の従来の説明さえ覆すものである。活力ある経済の担い手が増加するなら、消費税増税の必要はないではないか。

 総合的な大型間接税である消費税は、経済的底辺層になるほど負担が重いという逆進性を特徴とする。消費税導入後、法人税収は減少しており、いわば庶民の財布から金を抜き取って大企業に渡したような格好になっている。税収だけでなく事務手続きの煩雑さなど、特に零細企業にとって負担が大きいなど、様々な問題を抱えている。

 社会保障を受けるべき層にその財源を負担せよというのがそもそも矛盾である。景気に左右されない「安定した」財源が確保されるなら、政府は景気向上への努力を放棄する可能性もある。

 かつて消費税5%への増税で、上向きかけていた日本経済はどん底に突き落とされた。読売はその道を再び歩ませようというのだろうか。
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2005年01月05日

1月5日付・読売社説[『戦後』を超えて]「『ゆとり教育』の“呪縛”断ち切れ…基本法に新たな針路」

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20050104ig90.htm

【「学力低下」が明確になった】

 OECDの調査結果に表れたように、日本の子どもたちの学力が低下していることを懸念するのは当然だろう。しかし、その解決方法が適切なのかどうか。一部の「独創的」な発想ができる支配者と、「上の言うことは疑わず付き従う」盲目な労働者を育てたい読売が、本気で学力問題に踏み込むことができるだろうか。

 「戦後六十年で教育が失ったもの」との表現に、読売の戦前回帰思考が読み取れる。戦前の教育に逆戻りさせることで何を狙うのか。憲法論議などの主張を併せ見ることで、より深く読売の本質に迫ることができる。

【ねじれ生む文教施策】

 項の前半、読売にしてはまともな指摘といえる。しかし、最後に「『競争』で切磋琢磨(せっさたくま)の精神を教えることも重要だ」と結論づけるあたりはやはり読売と言わざるを得ない。適度な競争は意欲の向上につながる。しかしそれは、互いが高め合う関係でなくては成立しない。現在の競争は結局の所相手を蹴落とすことによって相対的な上位を狙うものに過ぎないのではないか。

 「多くの離職者、無業者、自殺者も生まれている」のは、「いきなり競争社会に放り出す結果」などではなく、弱肉強食で「全ての人が幸福になる」のとは対極の社会だからである。これを「切磋琢磨」などと言われたのではたまらない。読売は教育界に今以上の弱肉強食を持ち込むつもりだろうか。

【基本法改正こそ今必要】

 結局の所、議論をここへ持って行きたいがための教育批判だった、ということなのだろう。教育基本法は憲法の精神をより徹底するために作られた。憲法を否定する読売にとっては目の上の瘤である。教基法なら国民投票の必要がなく改変しやすい。教基法改悪を改憲の入り口とするのが読売の狙いではないか。

 「思想信条の侵害だ」「戦前への回帰だ」とする批判は、読売にも届いているらしい。それを根拠も示さず「的はずれな批判」などと呼ぶのは、この指摘が読売の最も痛い部分を突いているからかもしれない。「そうした人たちには、では、あなたは今の子供に何が教えられるのか、と尋ねてみたい」と返すに至っては開き直りとしか言いようがない。

 せっかく 「子供は未来からやって来た留学生だ。彼らに今施す教育が、あすの日本社会を決めるのだ。そんな気概を持って、取り組んでほしい」と言ってくれているのだ。読売の虚構垂れ流しに惑わされない自覚した市民として、間違っていることは修正し、正しいことは何か、を立派に主張し、日本と世界を平和に導く行動力を持つことができるような教育を進めたいものである。
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2005年01月04日

1月4日付・読売社説[『戦後』を超えて]「新憲法へ大きく踏み出す時だ…国家目標を定めよ」

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20050103ig90.htm


3日に続く第2弾である。いよいよお得意の改憲議論に突入だ。目新しいところはなかろうが、斬るべきところは斬っておかねばなるまい。

【政治が果たすべき責任】

 市民・一般庶民の要求と、財界や権力の狙い。それらの矛盾に基づく対立を「イデオロギー」などという狭い視野でしか見ないから「歴史の一コマになった」などと切り捨ててしまえるのだろう。「時代の変化に」「乗り越えられつつある」のは読売的思考であることにそろそろ気付くべきではないか。

 「憲法制定時には想像も出来なかった歴史的変化を乗り切る指針となる新たな国家像を描かなければならない」と来れば、まるで読売が明るい未来に向けた希望ある提言をしてくれるように読めるが、実際は戦前への回帰であることは、一連の社説を見れば明らかである。

 確かに国民世論の中で改憲容認が多数であることは事実だ。政府与党や読売がここ数年必死でキャンペーンを張ってきた成果とも言えるだろう。しかし、読売がもっとも狙う九条については「守るべき」との意見が多い。

 「国会や政党が憲法改正へ具体的に動き出した」のは「国民の意識の変化に押されて」などではない。ようやく必死のキャンペーンが浸透してきたところ。この機会を逃せば永久に戦前回帰の可能性はないと見て焦っているのではないのか。まるで全ての政党が改憲を進めているかの印象を与えるようにも読めるが、実際改憲に積極的なのは自民・民主だけに過ぎず、与党の公明すら改憲容認ではありつつも慎重な姿勢を崩していない。

 「国民投票法案の早期成立によって、憲法改正の環境を整える必要」などない。それを必要としているのは権力側に過ぎない。権力側による改憲はすなわち歴史的逆転を意味する。「戦後民主主義」との非難は戦前の体制を「民主主義」と呼ぶためだろうか。「過度の『個』の尊重」などと現憲法を攻撃するのも読売の一貫した姿勢である。「行き過ぎた『個』の尊重のため、単なる自己中心主義に陥」っているのは、一社で全国の中小企業予算を超えるほどの補助金を受け、国民を切り捨てて利益を上げる大企業ではないのか。


【新たな公共性の構築へ】

 戦争を「公共」などと言って押しつけられることは、絶対に避けたいものである。また、本来政治が担うべき責任を押しつけるために「家族」を強調していることは、読売の憲法試案を見ればよくわかる。
 この項の先頭で指摘している社会的混乱について、政治にも責任があることを指摘しないようでは、ジャーナリズムとしての責任を果たしているとは言えない。


【権利と義務のバランスを】

 憲法というのはそもそも、主権者たる国民が、国家に権力を委託するにあたって、権力が暴走しないよう最低限の要求を連ねたものである。「現行憲法の権利と義務の規定は、権利に偏重している」との指摘はとんでもない見当違いと断じるほかない。国民にとっては権利、国家にとっては義務となる事項で構成されるのが当然だからである。「国防の義務」についても、その義務を負うのは国家であることを知っておく必要があろう。

 「憲法改正の核心は九条改正だ」との一文に、読売の本音が集約されている。「世界を見渡」すならば、九条の精神こそ世界の注目となり、その方向へ世界が進もうとしていることに気付くはずだ。「日本だけの戦後思考の典型例」に見えてしまうのは、読売が言う「世界」がアメリカを中心とした一部の国であることを示すものである。


 読売が「この一年を、『戦後』思考を超えた憲法論議を展開し、憲法改正への跳躍台となる年としたい」と決意するなら、我々市民はその策動を越え、21世紀にふさわしい世界を目指す決意を固めたい。
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2005年01月03日

1月3日付・読売社説[『戦後』を超えて]「世界の変動にどう立ち向かうか…新たな視座を築け」

 「戦後」を越えて、すなわち戦前の価値観を取り戻す読売キャンペーン。新年社説と同様、1項目ずつ見ていこう。

【日米同盟を深化させよ】

 「過去の常識や経験則に頼っていては対応出来ない」との指摘は適切だ。しかし読売自身は、対米従属、安保重視、防衛と言えば軍事力という従来型の発想から抜け出せないようだ。いや、むしろ日本が戦争に突き進んでいたころの発想をそのまま現代に持ち込もうとの時代錯誤か。

 国連発足当時、まだ小国の力はごく弱く、大国が協力しなければ平和が維持できない、との趣旨で、安保理常任理事国には拒否権が認められた。しかし米ソ対立により、そのシステムが有効に働かなくなったことは多くの方がご承知のことだろう。

 近年になるにつれ、植民地支配を受けていた諸国がそれぞれ独立し、国連に加盟し、非同盟諸国連合などを結成して力を持つようになってきた。もはや「唯一の超大国である米国」が意見をいえばそれが全て通るような支配的な時代ではない。国際協調こそが平和の要であることに気付かない読売はやはり時代錯誤と言うほかない。

 「地域の不安定化につながりかねない中国の軍事大国化」と指摘しておきながら、日本の軍備増強、在日米軍の強化がアジア地域の緊張を呼んでいることに対しては鈍感である。「北朝鮮の核・ミサイルの開発は、日本にとって極めて深刻な脅威だ」としながら、「日米同盟の重要性」を言うばかりで、中国・韓国・ソ連などとの関係に目が行かないようでは、問題解決への道程は遠い。

【難しい中国との間合い】

 たかが政治体制の違いを理由に「自由主義、民主主義などの価値観も異なる」と決めつけてしまうのはいかがなものか。読売の主張には、立場の違いを超えて中国と協力しようとの姿勢は片鱗も見られない。もちろん個々の行動について必要があれば遠慮なく批判すればよい。しかし、アジア中でも大国である日中が協力しなければ、地域の安定は望めない。

 「日本の安全と繁栄を最優先する戦略的外交」との主張には、利己的な読売の思考が強く顕れている。しかし、視野を広く持ち、相手との共存を考えていかなければ、長期的には損をする可能性が高い。

 「中国には、(中略)東アジアの“盟主”として、米国と対峙(たいじ)する一極たろうとする戦略もうかがえる」との指摘は、結局日本が「アジアの盟主」たる地位を奪われることを警戒している証拠である。もはや盟主だとか軍事力・経済力を楯に一部の国が威張る時代は終焉に近付いているが、そのことには気付かないか。

【「新秩序」へ努力を尽くせ】

 「地域共同体が簡単に出来るとは考えにくい」というのは、現在の世界の動きが正しく見えていないからだろう。資本主義先進国も、社会主義国も、イスラム諸国も、発展途上国も一致したのが今回のアメリカによるイラク侵略戦争である。むろんそれぞれに思惑はあろうが、それを越えて一致できたのは「平和秩序」という共通項があったからである。そして、残念ながら日本はその中に入れなかった。

 国連改革が重要な課題であるとの指摘は適切だ。だが、必要とされている改革は決して読売の示す方向ではない。「国益にかなった新秩序」「日本にとって死活的」「日本の主張を反映」と必死になるあたりに、自国さえ良ければいいという思考が読み取れる。大切なのは世界全体にとっての利益であることを配慮に入れなければならない。それを視野に入れた上で「日本にも利益がある方向で」と主張するなら理解はできるのだが。


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2005年01月01日

1月1日付・読売社説「『脱戦後』国家戦略を構築せよ…対応を誤れば日本は衰退する」

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20050101ig90.htm

 予想通り、新年から極右〜ファシズム路線を突っ走る読売。「ゴミ売り」「黄泉売」と揶揄される原因がここにあることには気付かないか、あるいは気付いても路線修正できない大きな力がどこかで働いているのか。

 読売のいう「脱戦後」とは、すなわち「現在を戦前にする」ということであろうか。過去にもそう思わせる社説が相次いでいる。いや、既に日本は「後方支援」などという形で戦争に参加している。

 「脱戦後」というからには、「戦後」についての定義があろう。読売の定義は「『戦後』の世界は、基本的に米ソ冷戦構造の世界だった」ということのようだ。こんな狭い定義であれば、ソ連が崩壊した現在は戦後ではないということになるが、一般に「戦後」とは、二つの世界大戦を経て人類が「戦争を起こさない努力」を重ねてきた歴史である。それが見えないというのは、歴史に対しまさに「盲目」というほかない。

 「国家的対応を誤れば、日本は衰退への道を辿(たど)る」との指摘は当たっているが、読売の考える「対応」とは日本を衰退させる道のようだ。以下、社説の区切りに合わせて見ていこう。

【「戦後民主主義」の残滓】

「残滓(ざんし)」とは、「容器などの底に残っているかす」を指す。読売としては「戦後民主主義」を破壊しようと努力してきた自己の歴史に誇りを持ち、「残滓」すらも残さず殲滅しようとの意図だろう。そこに、「現在あるものから学ぶ」という謙虚な姿勢はかけらほども見あたらない。尊大な読売の姿勢を象徴するような主張である。

 GHQが憲法草案の原案を作成したことは事実だが、それを元に当時の政府は自国の草案を作り、さらに国会での議論を通じて現在の憲法が成立したのである。さらに、その内容は当時の国民から大きな支持を得た。「現行憲法の作成・制定過程そのものが最重要の言論統制対象だった」と、虚構によるプロパガンダを振りまくのは、現憲法に対し「おしつけられたもの」というイメージを植え付けるための卑怯な戦法と断じておく。

 憲法前文及び九条の趣旨を「世界の実像とはかかわりなく一国平和主義が貫徹できるかのような『戦後』的幻想」と決めつけるのは、読売お得意の論法である。多数の他国民を殺戮しつづけ、自国民だけは傷つかない卑怯な一国平和主義をとり続ける米国を擁護しながら、こういった罵声を浴びせる資格が読売にはあるのだろうか。

 この項の最後で「首相および政治全体が『戦後民主主義』的な軍事アレルギー感覚と一線を画す時である」と締めくくっているのは、まさに読売が悲惨な戦争に対する反省がなく、米国に従属して軍事的覇者になろうとする意図を明瞭に表すものと言える。


【改正すべき教育基本法】


 定番の教育基本法敵視である。そもそも教育基本法は現憲法の趣旨を徹底させる目的で制定されたものである。憲法を敵視する立場からは邪魔者に見えてしまうのはやむを得ない。それは一方で、逆に教育基本法が憲法の守り手であることも示唆している。

 「愛国心」などというものをわざわざ教育の中で規定する必要があるのか。自国に誇りを持てば自然に自国を愛する心は育つ。国際社会の中で平和を保つ金字塔である憲法九条を持つこの国を誇りに思う人々のことは敵視しておきながら押しつける「愛国心」とは何だろうか。

 それ以前に、自国だけを愛しようという考えなら、成り立つはずもない。隣国の歴史を大切にし、共存する関係が築けてこその愛国であろう。国など所詮人々が生きていくために便利であるから存在しているにすぎない。大切なのは国ではなく、全ての物に対する愛である。

 伝統を大切にすることに異論はないが、同時に悪しき伝統なら改革する必要がある。読売の求める伝統がいかなるものか、しっかりと見極める必要がある。

【「平等」偏重から転換を】

 このタイトルを素直に読めば、逆に読売は「差別」を求めていることになる。差別の行き先は何か。言うなれば、人間同士の「支配・被支配」の関係である。

 「転換」の一例として、消費税の重視を挙げている。「広く薄く負担する」ためと消費税の意義を主張しながら、これを「転換」とするのは矛盾してはいないか。あるいは、消費税は平等に逆行するという本音が漏れたか。

 「現役勤労世代の直接税・保険料負担を主要財源とした社会保障システムを維持」するための努力を惜しむ政府を後押しして「無理」などと決めつけるのは、読売が「差別的社会」を標榜するからであろうか。

【経済規模縮小の危機】

 「日本経済の規模と生産性そのものを維持できるかどうかという、困難な時代に入っていく」との懸念が外れてはいないとしても、それを「社会保障システムを支える前提」が崩壊しつつあるように描くのはいかがなものか。

 社会保障というのはそもそも国の根幹である。人々が生活をするために、集団で社会をつくり共助の体制を取る方がよいから国家を形作っているのであり、社会保障を行わないなら国が存在する意味すら疑われる。社会保障以外の分野への支出を抑えれば十分にシステムを維持できるにもかかわらず、まるで不可能であるかのように描くのは、やはりその他の無駄な部分を削る気がないからか。


 「いまだに『戦後』思考を脱却できない“守旧”勢力」とはいったい誰を指しているのだろうか。戦前からの思考を脱却できない読売をいったいどう呼べばいいというのだろうか。
 最後にこうまとめてある。

今、日本は、まさに国家百年の計が問われている。「戦後」の思考様式を払拭(ふっしょく)し、内外にわたり国家、国民の活力を維持するための戦略的対応を急がなくてはならない。残された時間は、そう多くはない。


 戦前の思考を反省もせず「『戦後』の思考様式を払拭」というのは、やはり戦前への回帰を求めていると解釈するほかない。しかし、「急がなくては」「残された時間は多くない」というのは、読売が焦っている証といえる。新年早々「『戦後』を越えて」のタイトルで社説を連発しているのもその現れであろう。つまり逆の立場から見れば、我々市民の力によって読売の主張が追いつめられているということでもある。手を緩めず追求すれば、戦前からの呪縛を完全払拭する日も近い。





 あけましておめでとうございます。あまりにもボリュームがあり、新年号を斬るのに時間がかかったことをお詫びします。今年も読売社説を斬り続けていくので、ご愛読のほどよろしくお願いします。
 まずは「『戦後』を越えて」シリーズを徹底的に斬らなくては。

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2004年12月29日

12月29日付・読売社説(2)[李登輝氏来日]「“正常化”に近づいた対中関係」

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20041228ig91.htm


 台湾元総統の李登輝氏のことで、過去の中国の過剰な干渉を批判するのはまあよしとしておこう。しかし、読売はそのこととと「嫌中感情」などというものを結びつけすぎではないか。日米が台湾に肩入れしていた時期に、それに対し中国が反発するのは当然であろう。

 過去に総統という立場にあった人物の扱いについて慎重になるのは当然だ。私人としての権利は守られてしかるべきだろうが、観光客が来日するのと同じに扱うのは少し無理があるのではないか。

 中国政府の姿勢を批判するのはよいとしても、「日本国民の嫌中感情を増幅する」などとの記述によって、中国に対する反感を増幅しているのは読売ではないのか。中国の反日感情の原因に目を向けず、非難の応酬で互いの関係が悪化することのないよう、注意したいものである。
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2004年12月28日

12月28日付・読売社説(1)[女性天皇]「有識者会議の論議を見守りたい」

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20041227ig90.htm

 女性天皇を容認すべき、との意見は国民の中に多い。それを利用し改憲に結びつけようという読売の意図が露骨に見える社説である。

 文中で紹介されているように、「皇室典範には、天皇の地位は『男系の男子である皇族』が継承すると定められている」のであって、女性天皇を認める必要があるなら皇室典範を改正すればよく、憲法に手を付ける必要はどこにもない。

 女性天皇の禁止は、明治憲法での天皇神格化と一体である。「日本の歴史上には、十代八人の女性天皇が存在した」と、以前に女性天皇が存在したことには触れているが、この問題を論じるなら、いつから女性天皇が禁止されたのかについても見ておく必要があろう。

 女性天皇の議論は、男女平等意識の浸透から来ている。憲法24条で「両性の平等」がうたわれて60年近くになるが、それを実施するための様々な取り組みが進んできたのは近年のことである。現憲法制定以前からある法律は改正を必要としているが、まだ手が着いていないところもある。家族について定めた民法とともに、皇室典範もその一つと言えるだろう。
(余談だが、夫婦同姓を強制しているのも戦前からの民法であることを、この機会に知って頂きたい。)

 皇族の最近の言動を見ると、彼らも同じ人間だということがよくわかる。一方で、一個人として行動するにはあまりにも縛られた「公人」という立場に、生まれながらにして置かれていることへの痛ましさも感じる。

 両性の平等というからには、その根源にあるのは「人間全て平等」という意識のはずである。そこから出発するならば、特定の血筋に属する人間が、ただ「その家庭に生まれた」というだけの理由で(しかも生まれた順序にまで左右される)、いち国家の象徴として特殊な扱いをうける、という不思議に対し、読売は疑問を挟もうとしなのが不思議である。


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2004年12月27日

12月27日付・読売社説[04回顧 世界]「長い戦いが続く『イラク』『テロ』」

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20041226ig90.htm

 24日付国内編と同様、読売ならではの認識違いが目につく。

 「『イラクで外国人拉致相次ぐ』(七位)もその一つだ。犯行グループは、外国人と見れば国籍を問わず、拉致し、殺害した」としているが、拉致後の扱いは反抗グループにより様々だし、国籍を気にしていることは明白だ。現地を訪れる人々の間では「日本人とバレると危ないので中国人のふりをする」のが身を守るための常識である。

 特にイラク人の武装グループは、米国に協力する民族を狙う傾向がある。また、街の警備を強化するなかで、外国人と見ればとりあえず拘束せざるをえない事情もあるだろう。彼らの要求が何処にあるかは、拘束された経験のある人物から話を聞けばより明瞭にわかるはずだ。

 一方、イラク外から入り込んだテロリストは、何だかんだと理由を付けて殺害する傾向があるようだ。10月に香田さんを殺害したザルカウィのグループは典型的である。彼らはその蛮行とともに、「反テロ」の米軍プロパガンダを手助けする側面も持っており、2重に許し難い。

 「フィリピン政府が人質解放と引き換えに撤退に応じてテロに屈した格好になり、国際社会の批判を招いた」と指摘するが、批判したのは米英日など一部の国ではないのか。市民の間では「勇気ある撤退」と賞賛する声が高まっている。

 「同様の求めに対し日本政府は、自衛隊の撤退要求を拒否した」ことを「当然のこと」と持ち上げるが、読売にはまず自衛隊派遣を正当化する意図があり、その理由付けは政府のプロパガンダを垂れ流しているに過ぎない。

 「約百九十人が死亡した『スペインで列車爆破テロ』(六位)」に関わっても、政権交代から軍撤退につながったことを「結果的にテロリストを利することになったのは間違いなく、国際社会に懸念を生んだ」と非難するのは筋違いであろう。読売はスペイン世論を敵に回すつもりか。

 そもそも、イラク戦争を「正当なもの」とする視点から離れ得ないことが、思考を硬直化させ、雑な論評につながっている。ロシアのテロについては「一連の事件は、政権の強硬一点張りのチェチェン政策が、奏功していないことを示してはいないか」と冷静な分析ができるにもかかわらず、イラクとなると占領に抵抗する「武装勢力を『テロリスト』と一括(くく)りにし」てしまい、「軍事力を行使して掃討作戦を展開」することを正当化してしまえるのはなぜか。やはり日米政府のやることは読売にとって絶対なのか。

 最後に「新しい年、どんな挑戦が世界を待ち受けているか。国際社会には、新たな知恵と、それを実現させるための果敢な行動力が求められている」と指摘している。軍事力による一方的な支配を廃した平和で平等・民主的な社会作りのために、世界が知恵を合わせ行動したいものである。
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